ほんの少し前までノーベル賞を取れば、殆ど偉人伝になるレベルだっただけど。

そしてノーベル賞と言えば、京大。

そして時々東大だったのに。

田中耕一さんが東北大学でノーベル賞を取った時も結構な驚きだった。

旧帝大の東北大学が2流という分類はないかもしれないけど、俺の当時の印象では決して最優秀層が行く大学ではなかった。

それが偉人しか取れないノーベル賞かと思ったんだけど。

昨年は徳島大学。

今年は山梨大学と埼玉大学。

埼玉大学に至っては東京出身の俺にとっても、国立なのか私立なのかFラン大なのか見当もつかないレベルの三流大学。

こうなってくるとよく分かるよね。

偏差値が高いってのは、決まった範囲内で決まった答えを能率よく出す能力。

ノーベル賞ってのは、人類の智をほんの少し広げる能力。

ノーベル賞を取ろうと思ったら、現在じゃポスドクなど一生独身、人生の廃人コースまであるからね。

コミュ障害まで医学部に入って医者になり年収1000万を確保に邁進し。

優秀な研究者になれる京大生が、商社に入ったり。

皆が皆、ボラティリティを下げて学歴をマネタイズしようと精一杯。

それって何十年か前の貧乏人出身の俺自身だよ。

もう一度何十年か前に戻っても、ボラティリティを下げてマネタイズしてたと思うけど。

今の資産があったら、チャレンジしたかったな。

現在の何が間違っているかというと、結構実家が太い男までボラティリティを下げてマネタイズしようとするんだよ。

金持ちに生まれた人間には金持ちのノブレス・オブリッジがあるだろ。

実家が太い女やバリキャリも女性版ノブレス・オブリッジってのはないのかね?

金なんか沢山あっても意味ないよ。

ベンツには乗りたいけど、ベントレーまでは必要ないし。

都内に30坪の一軒家には住みたいけど、都内の500坪の豪邸は必要ないでしょ。

そんな家に住んだらお手伝いが10人必要だよ。

命の次に金は必要だけど、必要以上に持っても大した意味を持たない。

オギャーと生まれた瞬間から、経済的独立することが個人の目標。

でもオギャーと生まれた瞬間から経済的独立している赤ちゃんにとっては、人類への貢献こそ個人の目標じゃないの。

それが芸術でもスポーツでも何でも良いんだけど。

そう考えるとこれからの時代は生まれながらの金持ちの時代になるじゃないのかね。

おわり。