キリスト教ではイエス・キリストの教えを信じています。


日本にもし宗教があるとすれば。


それは「子供には無限の可能性がある」って事を信じている宗派の人がが多いんだろうな。


http://news.livedoor.com/social_stream/list/5339582/#comment

このコメントを読むと滅茶苦茶笑える。


遺伝と教育についてもう少しこいつは勉強した方がいい。IQが150以上とかの層ならともかく、一定の教育を与えれば相当の投資効果がある。ヘタレ講師の経験則だけで語らず、学術論文をもっと読んだほうがいい。この輩は怠惰な生活を送ってボケてるのではないか?勉強不足。恥を知れ。


土佐の貧しい漁師の次男に生まれたジョン万次郎は、寺子屋にも行けず読み書きができなかった。1841年に漁に出て漂流し、アメリカの捕鯨船に助けられた。船長のホイットの家に住み、オックスフォードを主席で卒業してる。これは何が遺伝してなにが遺伝しなかったんだ?


貧困層の黒人で頭の良い奴とかいるじゃんな。カラスのような頭の良い奴とか。


>当然、社会で生きていく能力というのも遺伝で決まる面も多いだろう。・・・個人の経験や主観で自由研究をまとめるのは良いが、この記事書くのに、社会で生きていく能力に関して、「だろう」ってなんだよ。血液型占いの次元だな。好き嫌いは別として、ペンキ屋のせがれの北野武は、遺伝を振り切ってるって事か。別の他の例でも良いぞ。長嶋茂雄のせがれは、実は実の親子じゃ無いのか。えせ遺伝論で怪しい洗剤の講習会みたいな事止めてさ、追試可能な科学的、客観的な報告を望む。

俺的には、能力は遺伝するっていうは支持するけど。


このブロガーのように、馬鹿は殺せという感じは持たない。


親子三代に渡る生活保護

http://ameblo.jp/randtkikaku/day-20110212.html 

書いたように、「君のは無限の可能性がある」という善意の押し売りでこの18歳の少女をこれ以上苦しめても意味が無いと思う。


このブロガーは、馬鹿は多産だから、馬鹿がマジョリティーになる前に、馬鹿を去勢しろって話ですよね。

(そこまでは言ってませんが。(^_^;))


日本にはそんな余力はなく、金がない(金を稼げない)人間は自然淘汰される運命なんだから。


自然に任せるのが一番だと思う。


所得格差が遺伝するのではない能力が遺伝する


http://news.livedoor.com/article/detail/5339582/


所得格差が子供に受け継がれるんだ。親が金持ちだったら子供によりよい教育機会が与えられるから子供がいい学歴を得て高い所得を得るんだ。

という説明が世の中には非常に多い。だからこそ、もっともっと「機会の平等を」、「所得の分配を」と左派は叫ぶ。

もちろん、そういった面があることを僕は否定しない。

いわゆる貧困層の家庭の子供にもよい教育を受ける機会を与えていくことも必要だとも思っている。

しかし、多くの人が感じているはずのもっと厳然とした事実があることをマスコミも政府も学者達もあまり語らない。

それは「能力が遺伝する」ということだ。

グレッグ・マンキューも以下のように述べている。

The Half-Full Glass of Economic Mobility

At least some of the heritability of income must come not from inequality of opportunity but from the genetic transmission of talent

そんなことないんだ!能力なんて遺伝しないという人もいるかもしれない。

しかし、
有名なスポーツ選手の場合に両親も元国体選手でとか親戚にオリンピック選手でというのは多い。またモデルや俳優の親なんていうのは当たり前にかっこよかったり美人だったりする。(ま、例外も多々あるけど)

驚くことでもない。なぜなら、身体能力も見た目も遺伝するという当たり前の事実があるからだ。これなら多くの人があっさり受け入れるはずだ。

そう考えれば、当然、頭の良さも残念ながら遺伝することも容易に受け入れられるはずだ。当然、社会で生きていく能力というのも遺伝で決まる面も多いだろう。

学生のときに優秀な子からちょっとバカな子までごちゃまぜに見る塾で教えていたが、教える側に立てばこのことは明確にわかる。残念ながら人間の能力の差(もちろん、この場合は勉強に関する能力)というのは歴然としている。そしてどういう親かを見れば大体の場合は「なるほど」となってしまう。もちろん、地頭はいいのに努力しないからダメな子とかもいたけれども。

こういった能力が遺伝するという大切な要素をあまり語らず、多くの人が「より機会の平等を」といい、納得してしまう。それに反論するのも難しい。しかし、その行き着く先は結果の平等だろう。なぜなら究極的にスタート条件を同じにするならばすべての子供を親から引き離して施設にでもぶち込まなければいけないからだ。

それは何を意味するだろうか?

能力と努力だけがすべてを支配するギスギスとした競争社会であり、多様な家庭で育った多様な人材が生まれてくる多様性のある社会では決してない。そんなことは容易に想像できる。

↓理念を同じくする仲間と以下のような共同ブログを立ち上げました。一度お立ち寄りいただければと思います。

「小さな政府」を語ろう

また、より良い教育やちょっと変わった(?)教育をしていこうと考えている親の教育の自由を奪うことでもあるはずだ。

イギリスでも貧困層の家庭の子供にもっと機会をという声は大きい。しかし、誤解を恐れず言えば、貧困層の子供の多くは能力が残念ながら一部の例外を除けば低い可能性は高い。

そこになんでもかんでも税金をつぎ込むことは決して正しくないだろう。効率性の観点からもおかしいだろうし、中流家庭の子供との比較感からの公平性の観点からもおかしいはずだ。

それに、このブログではいつも言っているが、お金を持っているから幸せでも社会で高い地位にいるから幸せになれるわけでもないということもあわせてもっと我々は認識すべきだとも思う。学歴が高いから幸せになれるわけでもない。

「機会の平等を」というおまじないのような言葉の前に我々は思考停止に陥ってしまう。しかし、もっと能力は遺伝するという厳然とした事実を考えれば、「機会の平等」のためにはいくらでも税金をつぎ込みなさいというような誤った主張をもっと疑うべきだろう。

また、繰り返しになるが機会の平等の追求は効率性を毀損するのみならず、貧困層家庭の優遇を生み公平性の観点からも不平等感を生む。また、社会の多様性という観点からも問題だし、親の子供にどのような教育を授けるかという自由を侵害することにもなる可能性が高い。

そう考えれば、教育においても必要以上に「機会の平等」をあおり、しかもなぜかその尺度に学歴とか所得を使っているのはなにかがおかしいと思えてくるはずだ。