誤嚥性肺炎で死亡。

これが医療過誤なら、医療は成り立たないね。

本澤次郎氏の論理展開は、受験で俺の子供なら出来無いはずはないって奴と似ている。

もうそれは宗教に近いからさ、何を言っても無駄だろうけど。

有力者の紹介がなかった。

「親兄弟と思って対応する。そうすれば過誤は起きない」

「お父さん!医療過誤は僕一人で十分。早く無くしてよ」と耳の奥で聞こえてくる。

正義は必ず勝つ。正義は我にあり。

都市伝説の世界ですね。

医者は判断に困った場合は、自分の親兄弟ならどういう治療をするか考えなさいと教わる。

看護師の場合は、看護するときは自分の親兄弟と思って看護しなさいと教わる。

それは、勿論正論だけど。

親兄弟だと思って対応したも、ヒューマンエラーは起きる。

すべての患者にモニターがついているわけでなく、看護師の巡回の間で窒息死するのは医療の限界であって。

それは決して医療過誤ではない。

誤嚥する可能性があったのなら何故モニターを付けないのかと言われたら。

モニターの数には限りがあり、患者の状態により優先順位がある。

その優先順位はあくまでも確率論で、結果を保証するわけではないことは、それが医療の限界だと。

どれほどの有力者でも、金の力によってヒューマンエラーの確率を少なくすることは出来るかもしれないけど。

ゼロには出来ないんだって。



本澤二郎の「日本の風景」(851)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/51890809.html
<東芝病院を医療過誤で告訴> 8月15日のブログに「男は1回勝負する」という三木武夫発言を紹介したが、それを同日午後2時に自ら実践した。告訴状を持参して東芝病院のある大井警察署に赴くと、既に警視庁捜査1課の意向を踏まえたような同署の対応である。大いに感謝した。警視庁名刺には「社会を守るあなたの勇気」と印刷されているが、筆者もその一人なのか。正文の無念の死に少しは応えられた父親、という気分にもさせてくれた。「病院・医師は刑事責任を問われない」という傲慢な甘えの医療文化に、何がしかの緊張を投げかけることが出来た。これこそが医療過誤を減少させる特効薬なのだ。


 この日、初めて取材する人間が、取材される人間になった。とはいえ老醜を晒すわけだから、正直なところは内心、複雑な思いである。しかし、もっとも安全であるべき病院での息子の孤独死、という明々白々たる事実に蓋をすることは許されない。相手は一片の誠意も言葉もない東芝病院なのだから。

 父親としての手抜きは、またしても「有力者の紹介」という医療現場に潜んでいる悪しきルールを守らなかったことである。「たかが誤嚥性肺炎ではないか」との判断ミスだった。「有力者の紹介」さえあれば、1回目の医療過誤もかなり減少することが出来たはずだ。大いなる診断ミス(脳膿瘍とガンを間違える)も、途中から軌道修正できたのだから。
 一般の患者には、医師や看護師の手抜き・不注意が常時、襲いかかってきている。1度ならず、2度も医療過誤を受けて、正文は生きる権利を遂に奪われてしまった。こんな悲劇が繰り返されていいだろうか。実に単純なミス・エラーで。
<相手は東芝経営の大病院> 幸か不幸か息子を奪った大敵は、東芝病院である。背後の電通も見え隠れしているため、正確な情報を発信するマスコミを期待出来るのかどうか。ここがポイントの一つなのだが、実際は怪しい。最近得た情報では、東芝といえば、プルトニウム燃料棒を使用した東電福島原発3号機の原子炉メーカーだ。これがメルトダウンして、5カ月後の今も大量に流れ出しているという。それでいて未だプルトニウムの行方を特定出来ていない。それでも「原子炉製造が東芝の中枢ビジネス」と開き直る会社、そこが経営している大病院である。株式会社経営の病院という事実を知ったのも、つい最近のことである。
 日本を代表する財閥企業だ。相手に不足はない。筆者が警視庁の決断(告訴受理)を評価する理由である。実を言うと、自民党法務大臣経験者が大臣秘書官だった検事からアドバイスを受けた、その成果なのでもある。
<警視庁が告訴受理> 医療過誤の訴えを受理する事例は少ないという。マスコミが事前に大騒ぎでもしない限り。これが元法務大臣秘書官だった検事の説明だった。無数の被害者家族は泣き寝入りしている。訴えても多くは門前払いされる。
 だが、それでも警視庁は受理してくれたのだ。中尾院長・三好主治医・藤江指導医・犬山看護師の業務上過失致死容疑である。筆者もそうだが、警視庁も勇気を出してくれたことになる。この事実は重い。すこぶる重いのである。

 思い出すと、97年2月から地獄の世界に突き落とされてきた患者と家族である。筆者の無知領域での悲惨な出来事・事件だった。家族の人生・健康全てがねじ曲げられてしまった。計り知れない被害を、ただ受容するだけの患者家族であった。しかも、それは被害者にならない限り、第3者にはわかってもらえない。
 こんな苦痛と一緒の人生は、誰しもが到底耐えられない苦痛である。1回目の医療過誤によって6年間、植物状態にさせられた正文の悲運を前にして、どうすることも出来なかった両親である。
 「人生はいろいろ」というが、正にそうなのだが、それでいて病院は開き直った。あきれるどころではない。既に刑事事件の時効が成立していた。病院は時効成立を待って、植物状態の患者を追い出しにかかったのだ。
<嘘と隠ぺいを暴露> かくして必死の自宅介護となった。筆舌に尽くせない介護に感じてくれたのか、息子は反応してくれた。心臓が強かった正文は、奇跡的にも口から流動食を呑み込めるようになった。声も上げるようになった。食事・おむつ・高熱に対して、声をあげて反応するまでに回復した。毎日、車いすに乗せられるようにもなった。医学的に見て大変な成果である。
 患者のためを思うならば、病院ではなくて自宅介護が良いに決まっている。
 2009年から運動を始めた筆者である。あと10年、20年の介護のためだった。筋力トレーニングだ。きついが耐えてきた。自信がついた矢先の2度目の医療過誤で、2010年4月7日に正文は、とうとう生きる権利を奪われてしまった。
 信じがたい「病院内での孤独死」だった。彼は誰にも看取られることなく、痰が喉に絡んでの窒息死だったと藤江指導医は、亡くなったのを看護師が見つけてから30分後に駆け付けた妻に説明した。筆者も後に彼から確認した。「よくあるケースか」と尋ねると、なんと「自分も初めてのことだ」と釈明した。彼は看護師の巡回ミスといいたいのだ。
 死亡診断書を確認してみると「誤嚥性肺炎」を死因として記録、痰が喉に詰まっての窒息死と記述していない。死亡時刻は19時40分前で実際は不明だというのに21時すぎではないか。これは公文書偽造ではないか。業務上過失致死容疑だけではない。
 マスコミの取材に東芝は面食らっている。嘘と隠ぺいを報道関係者に垂れ流している。彼らが真骨頂を発揮する場面である。しかし、その手口は承知している。カルテに記録していないことを口走り、辻褄合わせを平然とするのである。白を黒と言いくるめたりもする。
 彼ら悪しき病院は、都合がよいときはカルテを利用する。その反対の時は新たに付け加える。家族に説明してきた死因までも隠ぺいするのである。そうして第三者を欺こうというのである。
 これからは、しばらく東芝の嘘と隠ぺい舞台をじっくりと“高みの見物”といきたいものである。有能な警視庁の刑事部長が信頼するベテラン捜査官は、彼らのカラクリを見破ることになろう。
<病院・医師も法の裁きを> 白を黒といいくるめる病院や医師は、素人が理解できない未知の分野という特権的過信からきている。しかし、医師の中にも良心的な医師はいる。現に1回目の医療過誤は、同じ病院内の善良な医師が真実を明かしてくれた。それが週刊誌などの活字となった。すると示談を求めてきた。提訴寸前のことだった。

 世の中には立派な医師も病院もある。間違いない。だが、多くは失敗しても反省し、謝罪しない。「やることはやった」と開き直ることを通例としている。1回目の過誤でしっかりと勉強させられた。それゆえにミス・エラーは繰り返すことになる。
 負の連鎖は病院・医師の側にある。もしも、失敗を認め、反省すれば、2度とミスはしなくなる。人間のすばらしい特性である。しかし、そうはしない病院と医師である。ならば、どうするか。
 法の下の平等原則を適用するほかないだろう。そうした原則を貫くことで、医療現場はまともになるはずである。過失が無くなれば医療過誤は激減するだろう。
 「医師・病院の業務上過失に対して法の裁きを受ける」というルールが、医療現場に浸透すれば、医療過誤は無くなるのだ。断言してもいい。警視庁が東芝病院事件を受理したことで、既に効果は大きい。
<年間4万人もの医療過誤死を無くす社会へ> 「医師失格」(長崎出版)を執筆したさい、東京新聞の特集記事に目が止まった。専門医の日本における医療過誤死の件数である。推定最大4万人を超えるというのだった。交通事故死や自殺の数よりも多い。
 圧倒される数字に度肝を抜かれた。現在、民主党参議院議員の医学博士にこの数字をぶつけると、彼は「数え方によっては、もっともっと多くなる」と回答したものだ。
 こんな事情を知っている日本人は少ない。治療や看護に当たって「親兄弟と思って対応する。そうすれば過誤は起きない」と言ったのは、厚生大臣を歴任した丹羽雄哉氏だった。手抜きや不注意さえしなければ、過誤は起きない。
<人生最後の挑戦> 正文の事故が起きるまで、筆者はいつも「30歳」という思いでもって仕事をしてきた。振り返ると、福田赳夫さんは70の坂を超えても「明治38歳」と豪語して天下取りの夢を放棄しなかった。
 人生最後の挑戦というと、やはり70歳前後となろうか。福田さんの心境も理解できる。個利個略の世界から解放される。無為無益の境地に入るからだろう。その時に人間は本物になれるのではないだろうか。本物の仕事が出来るのであろう。
 筆者には、その仕事を息子が死をもって用意してくれたのだ。「お父さん!医療過誤は僕一人で十分。早く無くしてよ」と耳の奥で聞こえてくる。
<正義は我にあり> 東電もそうだったが、東芝も有り余る資金でマスコミを動かせる力を持っている。既に判明した。だが、蟻の一穴という譬えがある。既にネットが手を貸してくれている。金で正義は押しつぶせないだろう。
 正義は必ず勝つ。正義は我にあり。死をもって正文が証明しているのだから。
2011年8月16日21時00分記