僕が大学受験をした20年近く前の時代には、千葉大や横浜国大と早慶の両方を受かると多くが早慶に進学したし。


旧帝大である東北大や北海道大学でも早慶を選んだ学生が多かった気がする。


それだけ、その当時の早慶入学者のレベルは高かったんだけど。


今は早稲田政経学部でも半分は推薦入試で入ってくるらしい。


大学の体をなしてないよな。


最近エッチした子は、学校推薦で理科大と早稲田政経学部をどちらでも選べたって言っていた。


早稲田専門学校みたいだよな。


シグナリングとはブランドの事だかさ。

一度崩れたブランドイメージは、急激に崩壊に向かう。


MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)とか関関同立とかは全くシグナリングの意味を持たない大学だと思う。


シグナリングとしての意味を持つ大学は何処か言えば。


昔に戻るんだと思う。


つまり、旧帝大、一橋、東工大。


10年後も20年後もシグナリングの意味をもつ大学はこれだけになると思う。


下記のブログと違った意見で、僕は若者の劣化は現実だと思っている。


理由は充分太った豚で、頑張る動機がないんじゃないの?


頑張る動機さえあれば、多少の能力の差はひっくり返せるけど。


頑張る必要がないんだからさ。


それは馬鹿になるよ。






実際には若い世代ほど優秀だが劣化してると言う人がいる3つの理由

http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/18037


本当に優れた入門書を読むと、平均的な人間の能力は短時間に飛躍的に向上する。
そして、ここ10〜20年ぐらいに登場した優れた入門書が実に多い。

私が始めてデザインパターンの本を読んだとき、
あまりにも素晴らしかったので、
いろんなエンジニアに勧めてみたが、
それを読みこなした人はごくわずかだった。

当時出ていたまともなデザインパターンの本は、
その一冊だけだったのだが、
平均的なエンジニアにはとっつきにくい、
分厚く難解な英語の本だったからだ。

しかし、今なら、その翻訳どころか、
日本人が日本人向けに書き下ろした、
実に分かりやすいデザインパターンの入門書が出ている。
これをきっかけにしてデザインパターンを使いこなせるようになっていって
飛躍的にシステム設計能力が向上したエンジニアの数は、爆発的に増えた。

哲学の入門書でもそうだ。
中学生や高校生のときにこれに出会えていれば
思考の基礎体力が飛躍的に向上したであろうと思える
平均的な人間にとっても非常に分かりやすい優れた
哲学の入門書の第一版の日付を見ると、
1998年だの2002年だのとなっている。

それに加えて、
パソコンで百科事典を気軽に調べられるようになった ことで、
知識の摂取効率が飛躍的に向上した。
百科事典に載っていない知識でも、検索エンジンで調べられる。
もちろん、パソコンで英和辞典が高速検索できるようになったことで、紙の英和辞典の時代よりも英語の勉強の能率も、辞書を引きながら英文を読んでいく能率も、格段に上がった。

さらに、英語は入力だけではだめで、「出力」によって血肉化し、実戦的な英語になるので、
どれだけしゃべりまくる時間を増やせるかが英語学習のキモだが、
ほんの10年前は数十万円〜数百万円かけて英会話教室に通わなければ、
英語をしゃべりまくる機会はなかなか得られなかった。
ところが、今ならスカイプを使えばもっとずっと安い料金で英語のマンツーマンレッスンが
受けられ、しゃべりまくって英語を血肉化する機会を得られる。

つまり、学習によって能力を増大させるインフラ
が、ここ10〜20年で劇的にパワーアップしたのだ。

その圧倒的に効率の良い学習インフラの上で少年時代を過ごした
若者たちの知力が、それ以前の世代よりも優れているのは当然だろう。

生まれつき優れた才能を持つ上位数パーセントの人間は、
どんな環境でも勝手にどんどん伸びていくかも知れないが、
圧倒的大多数の「平均的な」人間は、
結局の所、学習インフラの良し悪しで、知的能力がかなり規定されてしまうのだ。

ゆとり世代などと言われ、
それまでの世代よりも劣る教育しかされていないために、
知的に劣っているかのように言われる世代でも、
学習インフラの劇的な向上は、
学校教育が緩くなった分を帳消しにするどころか、
それをはるかに上回る効果があるように思える。

にもかかわらず、
「ゆとり世代は使えない」
「最近の若い社員は、かなり劣化している」
というようなことを言う人々が後を絶たないのは、
なぜだろうか?

第一に、オッサンは「今の自分」と
若者の現在の能力を比較してしまいがちだ。
そりゃ、10年も20年も第一線で戦ってきた古参兵が
新兵よりも戦闘能力が高いのはあたりまえだ。

オッサンは「若かった頃の自分」と
現在の若者を比較しないと、フェアな比較にはならないのだが、
ここを失念しているのだ。
つまり、「時間補正」をかけて、彼らを評価してあげないとフェアじゃない。

第二に、
「同じ学歴の人間同士を比較してしまう」
からというのがあるんじゃないだろうか。

若い世代の方が同世代の人口がかなり少ないのに、
大学の定員は昔と同じなので、
昔ならとても東大や早稲田に入れないような人たちまで、
東大や早稲田に入れてしまう。

このため、オッサン世代の東大生と、
今の東大生を比較して、
「最近の東大生は劣化が激しい」
と見えることになる。
すると、そこから、
「最近の若者は劣化している」
という誤った結論が導き出されてしまう。

つまり名目学歴が底上げされてしまっている分を補正して彼らの能力を
見てあげないとフェアじゃない。
学歴のインフレ補正をして、実質学歴に換算して比較しないと
フェアな比較にはならない。

第三に、知性のタイプがオッサン世代と今の若者で異なるためというのがある。
人間は、
自分と異なる優秀さを持った人間を過小評価し、自分と同じ優秀さを持った人間を過大評価する
という傾向がある。

オッサン世代の優秀な人間の知性は、ネットがなかった時代に最適化されているため、
「難解な紙の本を読みこなして、自分の頭で考えて解決方法を考え出す」
ということに過剰に重点を置く思考スタイルが多いように見受けられる。

このため、「紙の本を読みこなす」能力や
「自分の頭で解決方法を考え出す」能力が自分よりも低い若者が
自分よりもバカに見えたりするのではないだろうか。

しかし、ネットで検索したり、ネットで相談したりした方がよりよい解決の糸口が
見つかりやすい問題に関してまで、「難解な紙の本を読みこなす」とか
「自分の頭で考える」ことに重点を置きすぎると、
より多くの時間がかかり、劣る解決方法しか見つからなかったりする。

つまり、オッサン世代の知性は、哀しい奇形なのだ。
本来は「ネット活用能力」「紙の書類解読能力」「自分の頭で考え抜く能力」
をバランス良く発達させるのが、結果的に問題解決能力が高くなる。

ところが、オッサンが若かった頃はネットがなかったため、
「ネット活用能力」を発達させることに時間を投資することができず、
「紙の本読解能力」と「自分の頭で考え抜く能力」ばかりに過剰投資して、
バランスの悪い歪んだ問題解決スタイルに偏りがちなのだ。

その意味で、オッサン世代の知性は若い世代に劣っていたりすることも多いのだが、
若い世代の「自分の頭で考える力」ばかりに着目して、
「最近の若者は自分の頭で考える力が弱い」という風に、劣ったもののように見るのでは
ないだろうか。

だから、若い世代の知的能力を評価するなら、
オッサン世代が奇形的に発達させた能力のみで評価するのではなく、
ネット活用能力も含めた、問題解決能力の総合力で評価しないとフェアじゃない。


このように、「時間補正」、「学歴補正」、「ネット活用能力補正」
をかけて彼らを評価すると、
彼らの知的能力は、昔よりもかなり増大しているように見える気がするのは、
私だけだろうか。