男子校で6年間大人しく真面目に過ごしてきたAくんは少々シャイで、人の目を見るのが苦手な子(そんな子は世の中にたくさんいるから何の問題もない)。Aくんの努力もむなしく、受験の点数はギリギリの不合格(またがんばって1年勉強したらいい)。でも大学は、彼の“コミュ力の将来性”に賭けて合格させることにしたのだ。理由は、彼が男の子だから。その事実を彼は当然知らない。
こうやってAくんは晴れて念願の医学部生になった。受験のプレッシャーからの開放感はすさまじい。
初めて誘われた合コンで医学部生だと打ち明けた途端、女子数人の目が変わる。なぜかとてもやさしいのだ。戸惑うAくん。お母さん以外の女子と話すのは小6のとき以来だ。恥ずかしいのでうつむきながら話すAくんに、女子大生たちはみな顔を近づけて一生懸命に聞いてくれる。女子大生の髪の香りがこんなにも芳しいと知った、18の春。
夏休みになると、6年間で一度も話したことなかった中高時代の同級生男子が、有名大学主催のパーティサークルに招待してきた。医学部の勉強が忙しいので、パーティにはたまに顔を出す程度。すると、かわいい華やかな女子たちはAくんに駆け寄ってくる。思いきって自分から会話をしかけると、彼女たちは手を叩いて笑ってくれたりする。
そんな“成功体験”を重ね続けて、Aくんはすっかり変わっていく。大学2年生にもなると、かわいい彼女をとっかえひっかえのナウでヤングな医学部生へと進化(退化?)を遂げる。そのころのAくんのコミュ力といえば、廊下ですれちがった誰もが恐れる堅物の教授にさえ軽口をたたけるほど。そして教授は確信するのだ。やはり男女のコミュ力の差なんて大学生になればすぐになくなるじゃないか、我々の決断は英断であると。


あまりにも妄想が凄く、でもなかなか表現力豊かなのでほぼほぼ引用してしまった。
Aくんには『Dr.コトー診療所』のコトー先生を見習ってほしい。患者に寄り添い、やさしく話を聞き、小さな変化も見逃さない、そんでもって大事なときに適切な場面での決断力。医者として必要なコミュ力はコトー先生が全部持っている。

コトー先生を要求することが何を意味しているか理解できないその知性。

その知性のなさが、コトー先生になろうと思っていた先生たちをバーンアウトさせていることを想像すら出来ない。
全女子に告ぐ。医学部生という肩書きに目をくらませて、コミュ力のボーダーラインを下げないでほしい。声が小さくて聞こえなかったら、「え!?え!?」ってちゃんと聞き直してほしい。医学部の男の子だからって理由だけで甘めの採点つけるの、やっていることはあの大学と一緒かもしれないからねって話。


医学部の男の子に甘い採点をつけるの、女子が自分自身の利益を得るためにやっている行為でしょ。

甘い採点をつける女より、この行為を咎める女のほうが性根が腐ってるよ。

かつて存在した「ぶりっ子」と同じ論理展開。

「ぶりっ子」しても利益取得できないブスが僻んでいるだけの行為。


順天堂大学医学部のコミュ力が高いから減点は斬新な発想だったね。

浮気の現場に乗りこまれても、「何もしていない」と言い切るのに似ている。

だけど、医学部の女子を排除はジェンダー論とは関係ない話だけどね。

日本の文化として本音で対応する事は許容されないから。

大学病院では奴隷医が欲しいからとは言えないでしょ。
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ガラスの天井があることは事実だろうけど、女を売りにした女を叩けよ。

あるいは主夫との結婚をエリート女性に推奨しろよな。

おわり。